赤松林太郎 バッハ x ピアソラ コンサートが9月6日(木)、まもなく開催されます。
コンサートの詳細はこちら!
コンサートに先駆けて、バッハ x ピアソラ一問一答をお届けします!
コンサートの予習に是非、ご活用下さい!
1. バッハとピアソラという今回のリサイタルのテーマはそれ自体も組み合わせとしても斬新なものに感じますが、お選びになった理由は?
バッハとピアソラは18世紀前半と20世紀後半に生きた作曲家で、時代も隔てれば場所も大きく離れています。ところが、徹底的に「対位法」を駆使しているという点で、この二人は見えない線で強く結ばれています。ピアソラに限ったことではありませんが、バッハがいなければ、その後の作曲家の運命は変わったことでしょう。対位法的な旋律、そしてミニマルな律動。さらにこの二人は「ピアノ」の独奏曲として作曲したわけではありません。今回のリサイタルでは、この二人の作曲家をとおして、現代でピアノを弾くことの意味を改めて問い直してみたいと思います。ピアノの潜在的な可能性をさらに引き出す挑戦でもあります。
2. 全国で大人気のバッハの作品を題材とした先生のセミナーでは自作の資料も更新し続けていらっしゃるとのこと、研究を深められる中でバッハについて先生の最新の気付きがあればお聞かせいただけないか?
全国各地で《バッハのいろは》《インヴェンション》《シンフォニア》《平均律》と講座が続いていますが、一巡するたびに資料も新しく作り直しています。使用楽譜はベーレンライター版。指使いも立派な解釈なので、一から作曲家と向かい合う上では余計な情報になります。バッハがこれらの作品を通して息子に伝えたかった真実は何か? それは単なるアナリーゼだけでは何も見えてこないもので、全ての音に漏らさず施されている完璧な和声分析や構成表を見るたびに、バッハが創造したかったものの真の姿が語られずに終わることへの強い失望を覚えます。留学先で最初にバッハのレッスンを受けた時、「あなたの知っていることは何もないのね」と師に苦笑されたことは、ショックをはるかに通り越して衝撃に思われました。今から思えばたしかに何も知らないで弾いていたわけで、知らなければならないことの多さとそれを音楽として結実させなければならないことの重大さが私に迫ってきました。そこにはキリスト教という大きな存在が立ちはだかっており、いかなるバッハ作品もそこから逃れられないという事実を受け入れることがバッハ理解への第一歩となります。まさに〈バッハのいろは〉。スラーにする・スタッカートにするというような小手先のアーティキュレーションの問題以前に、理解しておかなければならないことは何でしょう? 第4、5、7番のようにバッハ自身あるいはバッハの後継者によって残された装飾譜を演奏してみると、ファンタジアとして着想されたシンフォニアの真価を覗くことができますし、バロック時代ならではの即興的な精神を感じる手がかりになります。何にも当てはまりますが、熟練や円熟は模倣に始まり、真似ることで学び、メティエとして進化していくもの。同じことが通奏低音のリアライズにも言えます。例えばバッハの『フルートと通奏低音のためのソナタ』では、本来チェンバロ譜が存在しません。チェロやガンバのために書かれたバスラインを左手で弾いて、右手は即興的に演奏することが習慣だったからです。ですから私たちは、各社から出版されている(右手は校訂者によって作曲されたもの)チェンバロ譜を弾き比べることで、当時の趣味を知るきっかけとなり、指と耳を通して技術へと落とし込んでいくのです。同時に表れてくる宗教的ニュアンスについては、まさにバッハの真骨頂と言わざるを得ません。今回のリサイタルで『フランス組曲』をとおして実践してみたいことは、まさに「即興性」です。
3. いわゆるクラシック作品にこだわらず様々なジャンルの作品を演奏なさる先生、それぞれの演奏に際して先生の中で何か切り替える部分はあるのでしょうか?
因習的な価値観や常識にとらわれて、楽しそうなことを逃したくない。楽しいかどうか、それだけです!(笑)